本誌ネタばれあり




















目の前のベッドには、エルヴィン団長が静かに横たわっていた。何にも囚われず煩わされず、ただすうすうと安らかな寝息を立てて眠っていた。かぶせられた掛け布団の上に乗る左腕。あるはずの右腕はもはやどこにも見当たらず、私は悲しみというよりもむしろ、困惑にかられていた。あの日私は彼の間近でその光景を目にしていたはずだというのに、記憶は断片的にしか残っておらず、残っている幾らかの記憶でさえ靄がかかったように白く霞んでいた。どうやって帰ってきた?エルヴィンをどうやってここまで運んできた?どんなふうに彼の腕を治療した?その間私はどうやって過ごしていた?数日間の出来事。すっぽりと抜け落ちた、私の記憶。

記憶。私はうすぼんやりとその紐を手繰り寄せる。満ち満ちた悲劇に包まれた壁の中(あるいは外)で、私とエルヴィンが二人で紡いだ幸せの糸。限りなく細く頼りなげで、拭いた風にさえも断ち切られてしまいそうな儚い愛の記憶。初めて彼に触れられた時のこと、初めて彼に口づけられた時のこと、初めて彼と一つになった時のこと。そんな特別な出来事だけではない。よく晴れた日に二人で出掛けた湖畔で彼が花を摘み差し出してくれた時のこと(とても小さなすみれの花だった)、木枯らしの吹く夕暮れ時、恥ずかしげもなく私の手を取りコートのポケットに導いた時のこと、明け方の白い光に包まれたベッドの中で私の髪を優しく梳いてくれた時のこと。そんな小さな幸せを、私たちは密やかに縒り合いながら生きてきた。悲しみや、絶望を編みこまぬよう、細心の注意を払いながら。

とめどなく溢れる記憶の糸に、私は身動きが取れなくなる。目の前の現実(もはや惨状といってもいいだろう)から目をそらし、蚕が繭に籠るように柔らかな記憶に包まれていっそのこと何も見えなくなってしまえばいいのに。命があるだけましだ。生きて帰ってこれたのだから。確かにそうかもしれない。奴らを倒すことが出来るのなら腕の一本ぐらいくれてやるさ、いつだったか遠い昔、エルヴィンが言っていた気がする。あの時私は彼の言葉をほんの冗談(もしくは若さゆえの勇み言葉)だと思い笑っていた。けれど違ったのだ。彼のあの言葉はまさしくそれそのもので、本当に彼は腕を一本奴らに”くれてやって”しまったのだ。
でもねエルヴィン。私は心の中で語りかける。あなたの腕一本じゃ足りなかったみたい。あなたの腕一本分、それだけの対価を払うのだからこの世の巨人が一頭残らず消え去ってくれてもいいと思うのだけれど。酷いものね。
布団の上、彼の右手が本来あるべき場所を撫でる。シーツにへこみもなければ盛り上がりもない。たくましかった彼の腕は、綺麗な形をした肩で唐突に終わっている。それはまるで、何の予兆もなく突然止まってしまったオルゴールのようだった。物悲しい最後の音が、段々と弱くなりながら空気を震わせる気配に耳をそばだてるようにして私は目を凝らした。彼の腕の名残を、空中に見出すかのように。

開け放たれた窓枠から腰を上げ(これはしばしばエルヴィンに行儀が悪いと咎められる癖なのだけれど、窓枠というのはどうしてだかその細さに似合わずしっくりと背中になじむのだった)エルヴィンの眠るベッドに腰掛ける。残された左手に己の右手を重ね、肉刺や切り傷、引き連れて小さく艶めく古傷の痕をそっと撫でてみる。かさついた皮膚の皺ひとつひとつから滲みでてくる彼の熱。小さなささくれや親指の節、それら全てが、かけがえのない愛おしさで溢れていた。
これからもう一生、私は彼の両腕に抱かれることはない。とびきりの安心感と、絶対的な安らぎを私に与えてくれた彼の両腕。消えてしまったそれに思いをはせた。
触れた手がやんわりと動き、瞼が数度ぴくぴく動いたかと思えばエルヴィンは目を開いた。カーテンを開けはなったその先に広がる空のように澄んだ彼の瞳が現れる。虚ろに宙をさまよった視線が私をとらえ、エルヴィンは目じりに皺を浮かべた。







「……、」

「エルヴィン、おはよう」

「今は、何時だ」

「8時過ぎよ。もちろん朝の、ね」






おどけて言う私にエルヴィンは肩を小さくすくめてみせる。






「慣れないな、片方ないというのは」

「慣れるも何もまだ随分と痛むでしょう。安静にしていなきゃ」

「しかしやらねばいけないことが山積みだ」

「いいの、今は」







起き上がろうとするエルヴィンを私は制する。確かに仕事は山積みだった。生きて帰ってきたのだから片腕を失くそうがなんだろうが、きちんと上への報告をしろだの多大な犠牲を出したのだからしかるべき場に出て弁明をしろだのうるさく騒ぎたてる外野をとりあえずは黙らせて(主にそれはリヴァイの役目だった)、しばらくの静養を無理にでも取らせているのだ。むろんエルヴィン自身は当然それを良しと思ってはおらず、隙を見ては時たま書類の山に向かうものの私や他の部下に見つかっては諌められ、ベッドへと連れ戻されているのだった。





「私が出来るものはやっておくから」

「すまないな」

「……謝るのは、私のほうだよ」





私は俯く。エルヴィンの左手を握りしめて。





「あんなに近くにいたのに、私、エルヴィンのこと守るって言ったのに。なのに、なのにこんな、」

の所為じゃないさ」

「でも、」




泣きそうになりながら言いかけた私を、エルヴィンは静かな眼差しで見つめていた。私は誓ったのだ。私があなたを守る、と。今まで散々守られてきたのだから、これからは私があなたの盾になると。それなのにこのざまは何なのだろう。盾になるどころかエルヴィンの腕がもぎ取られるところを横目で追うことしかできず、己はのこのことかすり傷程度で帰還するなどまさに無能。今まで培ってきたすべてが無に帰した瞬間だった。後悔ばかりが押し寄せ胸をえぐる。失われた腕に、無言で責められているような気がした。





「元は二つあったものだ、一つぐらいなくなったってどうってことはないさ」

「そんなことあるわけ、ないじゃない」

「今更悔いたって何も変わらない、そうじゃないか?」





そう問うたエルヴィンに、私は頷く以外に何が出来たというのだろう。前を向き歩きだす彼の背中がひどく遠く感じて私はそら恐ろしくなる。いつかこの背中が手の届かないところまで離れてしまうのではないかと。
分厚いクッションに上半身を預けながら起き上ったエルヴィンの胸に身体を預け、その顔を確かめるようにして私は覗きこむ。





「そんなに悲しい顔をするものじゃないよ、

「……うん」

「ちゃんと生きて帰ってきた」

「……うん」

「こうして君を抱きしめることだってできるんだ」

「エルヴィン……」




言葉尻はもはや声なき声となり、震え掠れながら吐き出された。背中に回された腕の重み。無いはずの右腕の重みを私は感じる。大丈夫、温かい。こんなにも温かい。そう自分に言い聞かせながら。
これからどうなるのだろうだとか、書類の山はどうしようだとか、そんな心配事はもうどうでもよくて。振り切ることのできない後悔や悲しみを、守れなかった約束たちを胸の内に秘めながら私は全力で今、目の前にいるエルヴィンを全身で感じる。それが、重要なのだ。きっとエルヴィンは今こうしているときにすら、この先のことを考え組み立て実行に移そうとしているに違いない。けれどしがない(認めてしまうのは些か不服ではあるけれど)凡庸な女である私は、いつか消えてしまうかもしれない彼の温もりにしがみつき、その清潔なリネンに混じる彼の香りを胸一杯に吸い込むのが今の精いっぱいなのだから。

きっときっと、幸せの糸がいきつく先は彼の腕なのだ。
失われてしまった彼の右手、その人差し指と親指がつまむ細い糸。
くるくると緩やかに螺旋を描きながら私を包んでくれる糸。
二人の間に浮かぶどんな小さな幸せも消えてしまわぬように掬い上げ、これからもそっと紡いでゆこう。
その糸を。



20131029