なんて馬鹿げた世界なのだろう。空はこんなにも高く青く、雲は、鳥はあんなにも自由だというのに。空に向かって手を伸ばすけれど虚しく空をかくだけで。どこかで刈り取られたのであろう干し草の乾いたあおい香りが時折鼻孔をくすぐる。なぜだろう、私はとても懐かしい気持ちになった。いくら記憶を辿っても、それはもう永遠に見つけることはできない。霧の中で目を凝らすよりも無意味なことのように感じた。
ごろり、仰いだ空を横目に見れば、若草が頬をなでる。この季節が好きだ。偉大なる太陽の恵みを受けて、ありとあらゆる生命がぐんぐんと空へ向かってゆく。人間だけを除いて。たとえどれだけ太陽が燦々と降り注ごうが、壁の中で家畜と化した私たちは頭を垂れ日々恐々と己の生命をすり減らす。まったくもってひどい話ではないか。
そうは思わないかい、わが愛馬よ。
つぶらな黒い瞳にたっぷりと潤いを湛え、私の気持ちを察してか察せずかブルル、と小さく震える息を吐きだした。



「あーそろそろ戻んなきゃな」



きっとリヴァイが私を探し回っているころだ。昨日までに提出するはずだった書類は数行書いただけでそれ以上進むことはなく、忌わしい存在として私のデスクの上に鎮座している。今頃何の音沙汰もない私を訝しがった彼が部屋を訪れ、あの忌まわしき呪われた白紙を発見していることだろう。リヴァイの怒る顔が目に浮かぶ。けれど、構わないのだ。この偉大なる自然の中においてそんなことは些細なことでしかないではないか。



「おい馬鹿野郎、全部聞こえてるぞ」

「あらら、リヴァイ兵長様いつの間にいらっしゃったのでしょう」

、てめぇ馬で踏みつけるぞ」

「やだー怖いー」



とびきり不機嫌な顔をしたリヴァイが愛馬の上からこれまたとびきり不機嫌な声色で私に吐き捨てる。



「いいじゃないあんな報告書なんて。壁外調査に行きました、誰それが食べられました、今回も取り立てた成果は上げられませんでした、次回はさらなる健闘をする所存にてうんたら。なんて私もう書き飽きた」

「貴様が書き飽きたかなんてどうでもいい、仕事だ、こなせ。唯それだけだ」

「そこまで言うならリヴァイが書いてよ」

「あのなぁ、俺はお前と違ってやるべきことが山ほどあるんだよ」

「わざわざこんなところまで来る時間があるのに?」



そう、ここは旧調査兵団本部からさらに奥まった場所にある、いわば秘密基地のような場所なのだ。私とリヴァイの秘密基地。きっとほかの人は知らないだろう、こんなにも静かで美しい場所が壁の中にあるということを。



「私、うんざりよあんな書類」

「だから…」

「何が嫌って、もう何も感じないの。死んでいったみんなの名前をただひたすら書き続けるあの作業を。ついこの前までは生きて笑っていたのに唯の肉の塊になって、最後はペンのインクになっちゃうのよ。そんなのってあんまりじゃない」

「だからなんだ」




そうだとしても、生き残った俺たちはそれをするしかない。そうぼそりと呟いたリヴァイは音もなく馬から飛び降りる。ふわりと、周りの風が流れる。寝転がる私の隣に腰をおろして指先で白く咲いた小さな花をつつくその姿は、あまりにもいじらしかった。
背は小さいくせに案外この人は無骨な手をしている。爪はいつだって短く切りこまれている。きちんとした清潔さを身に纏ったような手。



「もしも私が死んだらリヴァイが書いてね、報告書」

「まぁお前は分隊長だから必然的にそうなるだろうな」

「なら心おきなく戦える」

「馬鹿なことばかり言ってねぇでさっさと戻れ。そして報告書を書いて提出しろ」

「はいはい」



こんなにも世界は美しい。囲われた私たちの小さな世界。今この時、リヴァイが隣にいてくれてよかったと思う。彼はこう見えて案外優しいのだ。私がここにいることも、ここにいる理由も知っている。私たちは何かあるたびに二人でここへ逃げ込んできた。時には土砂降りの雨に打たれた子犬のように、時には生まれたばかりの小熊の兄弟のように、そして時にはキャベツ畑を舞う蝶のように。ここは昔からそういう場所だった。
木に繋がれている私たちの馬が、親しげに鼻を触れ合わせている。ふと、私もそうしたいと思った。どうしてこうも人の体温というものは、突然ひどい渇きを覚えるように、私に渇望させるのだろう。触れたい、唯その一心でリヴァイの手首に手を伸ばす。触れた手首は骨ばっていて、背は小さいけれどやっぱりこいつは男なのだなぁ、なんて私は当たり前のことを思う。
私はリヴァイの手首が好きだ。案外大きな手のひらに比べて割合ほっそりとした彼の手首、その不安定さもしくは不完全さは彼の象徴であるかのように思えてならない。筋張った筋肉や骨の凹凸に指を這わせてその感触を確かめる。



「何だよ」

「死にたくないなぁ」

「誰だってそうだろ」

「なら人一倍、そう思ってる」

「何だよ、それ」

「前はね、いつ死んでもいいやって思ってた。だってそうじゃない、あんな薄汚れた日もろくに差さない地下にいてみなさいよ、生きる意味も目的も見失いもするわよ。でもね、今は違う。空はこんなにもきれいだし、空気はおいしい、だからね、」



私は一息つてゆっくりと言う「私楽しい、生きてることが」。しばらくの沈黙があった後、リヴァイは小さく「そうだな」とつぶやいた。



「それにリヴァイも一緒だし」

「お前な」

「照れた?でも本当よ」



何も言わず、ふいっと横を向いたリヴァイの腕を力の限り引き寄せる。突然のことに体制を崩した彼は私をまたぐような形で草の上に手をついた。



「あぶねぇだろうが」



思い切り寄せられたリヴァイの眉根に手を伸ばす。鬱陶しげに顔をそむけはしたものの、手を払われるようなことはされなかった。



「ねぇ、キスしてよ」

「嫌だ」

「ねぇってば」

「誰がするか」

「こういうこと女の子に言わせないでよ」

「なら黙ってろ」



阿呆らしいな、とでも言いたげにしてリヴァイは私の上から身体をどける。彼の影に隠れていた太陽が急に顔を出し、飛び込んできた強い光に私は目を細めた。ちらつく視界の片隅でリヴァイが立ちあがる。



「さっさと立て、戻るぞ」

「はぁーやだなぁ書類」



泣き言を繰り返す私に、手が差し伸べられる。私の大好きな、手。やっぱりリヴァイは優しい。



「書類終わったら何かご褒美お願いね」

「書類はお前の義務だ、義務なんてのは果たして当然のものなんだよ。いい加減にしろ」

「はいはい、やればいいんでしょ」



投げやり気味に言って私はその手を取り起き上がる。ぐいぐいと私の手を引くリヴァイの後ろ姿。
そういえば初めて壁外遠征に行った日もそうだった。己の無力さと絶望に打ちひしがれた私は、降りしきる雨の中ここで一人ただひたすら泣いていた。泣くことしかできなかった。泣いても泣いても、それでも雨はやまないというのにいよいよ自分の涙が枯れた時、私はどうすればいいかわからず膝を抱えて小さく丸まっていた。どれぐらいそうしていたのかは覚えていない。けれど気がついた時には隣にリヴァイが座っていた。そして私に手を差し出した。縋る思いで握ったその手は私を不器用に導いた。
もうもうと立ち上る霧で辺り一帯は白く霞んでいたけれど、前を歩くリヴァイの背中は現実よりもさらに鮮やかに私の眼に映っていた。
あの日から、私たちは互いに成長した。けれど彼は今でも私をここに迎えに来てくれるし、私の手を引いてくれる。





「ありがとね」

「礼なんて言うな、気色悪ぃ」




粗暴な言葉とは裏腹に、握る手に彼はそっと力を入れた。早く馬に乗って二人で風を切りたいと思った。乾いた優しい風を、どこまでも。



20130808