昔、私の隣にいた男はもういない。肉体も魂も、遠いところへ消えてしまった。私を置いて。あんなにも笑い合い愛し合ったというのに、あっけなく奪われてしまった。私はもうあの体温さえ忘れてしまった。
例え現実では、肉体も魂も実際に存在しているとしても、今となっては存在していないのと同意義なのだから。












「ぼやぼやしてんじゃねぇ」

「あ、ごめん」



かしゃん、と金属が落ちる音で我に返る。手元で磨いていたはずの刃が地面に落ちていた。拾おうとして身をかがめれば、鈍色のスチールには輪郭を失った自分の顔がぼんやりと映っていた。途端、鋭い痛みが指先を走る。痛い、と思って指先を見つめた。赤い血が一筋流れたのはその2秒後だった。



「やっちゃった」

「何してやがる、早く止血しろ」

「いいよ、その内かってに止まるから」

「そういうレベルの傷じゃねぇだろうがどう見ても」



見せてみろ、そう言ってリヴァイは半ば強引に私の手を取り引き寄せる。突き刺さる視線を感じてジンジンと余計に傷が痛むような気がした。



「そう深くは切れてないみたいだな」

「そっか、よかった」

「よかったって、お前なぁ。不注意が過ぎるぞ」

「ごめん」



まるで脳に薄い膜が張っているような気分だった。こんなにも酷い憂鬱に襲われるのは久しぶりだ。自分が今生きていることの証明であるかのように、指先の痛みから血が流れ出す。
胸元から取り出したハンカチでリヴァイは私の傷を縛る。



「大方これでいいだろう」

「ありがと」



感情を外に出すのは不器用な癖に、こういうことは器用な男。だからこそリヴァイがそばにいてくれてよかったと思う。
あの日、満点の星空のもと一人で泣いていたあの夜を独りで過ごしていたら、今頃私はどうなっていたのだろう。動くこともままならず、ただ両の目から塩辛い涙を流すことしかできなかった私の隣にいてくれたのは、皮肉なことに私が心から望んだ男ではなくリヴァイだった。取り巻く静寂を時折破る嗚咽が響くたびに、戸惑い気味に背中を撫でてくれた手のひらの温かさを思い出す。あの人と昔愛し合ったはずの感触や体温はもはやすぐには蘇らないというのに、リヴァイの控えめな手の温かさは今でも驚くほど鮮明に感じることができる気がした。



「もう大丈夫だろ」

「ん、」



左手の薬指に巻かれた白いハンカチには、染み出した私の血が赤い点を滲ませていた。それは心臓のようにも、宝石のようにも見える気がした。



「リヴァイ」

「なんだ」

「私、やめようかな」

「……」

「調査兵団、やめようかな」



やめられないことなどわかっていた。自分の地位や立場、責任の重さだって承知していた。けれど心が悲鳴を上げているのだ。私は、もう両足で立っているのですらやっとだというのに。



「お前が辞めたいなら俺は止めない、それはお前自身が決めることだろ」

「うん」

「辛いか」

「辛い、心が壊れる」



滲んだ視界に気がつかないふりをして話を続ける。ここで口を閉じてしまえば、またあの日の夜が襲ってきそうな気がした。



「おかしいよね、巨人が目の前に来たって怖くなかったんだよ、仲間が殺されていくのだってもう、なのにどうしてこんなことで私の心は痛むんだろうね、誰かが死ぬわけでもないのにね」



あはは。無理やり付け加えた乾いた笑いは行くあてもなく風に吹かれて流れて行った。



「わかってたんだよ。初めから終わりがいつか来るってことはわかってたの。準備してたつもりだったんだけどね、できてなかったんだね。駄目だなぁ私って。何度も練習してたんだよ、さよならって上手に言えるように。鏡の前でさ、表情の練習とかしちゃってさ。こんな風にしたら気持ちが変わるかなとか、あんなふうにしたらやっぱ私でなきゃ駄目だって思ってくれるかなとか、だけど、結局、」



威勢よく話しているつもりだった。けれど口を開けば開くほど言葉はかすれ、喉に張り付いた。つっかえながらも壊れたおもちゃのように話す私を、リヴァイは身じろぎもせず見つめていた。




「私、もういいよね、もう、」



「駄目だよ……もう」

「仕方なかった。お前の気持ちもあいつの気持ちも、どうであろうと関係なく結局はあの結果になった。どうしようもないことだったんだよ」

「わかってるよ!」



行き場のなかった激情が堰を切って溢れ出す。



「あれは仕方のないことだって、そう思わなきゃやってられないの!」

、落ち着け」



リヴァイの手が私に回される。いつの間にか沈みかけていた太陽が、リヴァイの肩越しにそびえる山の端に沈みかけていた。震える私の背中を、そっと包むこの両腕。この世のすべてが理不尽に思えた。押しあてた頬から、触れ合った身体からリヴァイの体温が流れ込む。あの人よりも、少しだけ低い体温。限界を迎えた涙腺から涙があふれ出す。どうして、どうして、どうして。答えなんてとっくに見つかっているはずの疑問だというのに、問い続けずにはいられなかった。その言葉が繰り返されるたびに私を抱く腕の力が強くなる。いっそこのまま抱きつぶされてしまいたかった。私の涙を吸い込んだリヴァイのジャケットが温かく湿る。一見小さなあの胸に、私の身体がこんなにもぴったり収まるなんて。だけどあの人の胸はもっと広くて暖かだった。好きなように体の向きを変えることだってできた。けれど私は今リヴァイの胸の中に、パズルの最後のピースを嵌めたかのように隙間なく収まっている。息も詰まるほど、身じろぎすらも許されないほど。




「どうしようもないことだった、誰のせいでもなかった。お前だってわかってんだろ」



耳元でリヴァイが言う。



「政略結婚なんて、このご時世よくあることだ」



セイリャクケッコン。それが私からエルヴィンを奪った。リヴァイの言うとおり誰も悪くない、誰のせいでもない。だからこそ、気持ちのやり場もない。何の後ろ盾もない私に勝ち目などないことなどハナからわかっていた。そもそも同じ土俵の上にすら立ってもいなかった。けれどエルヴィンと過ごした時間だけは、確かなものだった。たとえまやかしだとしても。けれどそれはもう失われてしまった。気持ちは引き裂かれてしまったし、エルヴィンは私の手の届かないところへ行ってしまった。手を伸ばせば触れられる、一歩近づけば抱きしめられる距離にいるけれど、私たちの間には決して超えることのできない決定的な透明な壁が常に存在していた。



「俺はどうすることもできない、お前のそばにいてやることしかできない」



そんな優しさを、傷ついた私に見せてくれなくてもいいではないか。十二分に傷ついた私は、差し出された優しさに縋らずにはいられなかった。友情以上の感情が向けられていたとしても、今はそれに気がつかないふりをしてリヴァイの優しさに自分の全てを預けていたかった。



20130824