「ちょっと待ってください、ストップ、タンマ、落ち着いて」 「ん?どうした」 「どうしたじゃなくって、この状況!ありえないですから!」 「あり得るあり得る、大丈夫」 「大丈夫じゃないですってば、仕事中ですから!」 両手を突き出して押し退ける私を軽くあしらいながら、博士は尚もこちらに近づいてくる。 距離が近すぎます、顔をそんなに近付けないでください、昨日の夜チョコレートを食べ過ぎて右のほっぺにニキビが出来ちゃったんです。 思い切り顔をそむけてその長い腕から逃れるようにして私は博士のデスクの向こう側へと回りこむ。 最近の博士はなんだか変だ。 博士の女癖の悪さは風のうわさで知っているけれど、まさかこの私(遥々ホウエン地方からやってきた我ながら垢ぬけない芋っぽい女)にまでその腕を伸ばしてくるとはあまりにも節操がなさすぎではないだろうか。 だってこの研究所にはもっとグラマラスで都会的で知的で、とびきり長い脚を白衣の裾から覗かせているお姉さま方がたくさんいるし、彼女たちは博士が気づくか気付かないかギリギリの視線を送り、その反応をしばしば窺っている。 それに彼女たちだけではない。 カフェのウェイトレスさんや街ゆくレディたちの視線ですら、博士は攫ってしまうのだ。 ランチの買い出しに付いていってそんな視線に気づくとき、私は誇らしい気持ちになってしまう。 どうですみなさん、うちの博士はこんなにも素敵なんです!と。 けれどその誇らしさは蓋を開けてみれば空っぽで、だから何なのだと自分に問いかけては虚しくなるばかりだった。 初めは博士の色気たっぷりの声だとか、高い背だとか、二枚目な顔に心を惹かれていた。 私のような田舎者が抱くにはあまりにも分不相応な恋心なんて、さっさと見切りをつけてしまおうと頑張ったこともあった。 しかしそばで仕事をし、彼の色々な側面を見るうちにさよならをしようとしていた恋心は静かに熱く、胸の中で膨らんでいった。 髪をかき上げる男の人そのものの手や、上手くいったときに私に向けられる温かな眼差し、そしていつだったか、夕刻帰る間際に見たアンニュイな表情。 夕日が彼を染め、伸ばされた髪がその整った顔に夜のカーテンをかけたような影を落としていた。 危うい均衡を保ったその部屋の空気を乱すことが躊躇われ、私は半分開いた扉のドアノブにかけた手を引っ込め、無言でその場を立ち去った。 甲斐甲斐しい聞き込み調査でわかったのは、博士は結婚しておらず、恋人もいない、という二点だけだった。 それは限りなく喜ばしい事実ではあるものの、だからといって私にチャンスがあるなんてお目出度いおつむをしているわけではない。 だから私は決めたのだった。 ひっそりと恋をし、いつの日かひっそりとこの恋を終わらせようと。 「博士!報告書見てくださいよ、そんなことしてる暇あるなら」 「わかったわかった、後で見るから机の上に置いときなって」 「今見てください!」 博士は何にもわかってない。 私が必死になって隠している気持ち。 それでも隠しきれなくて、顔をのぞかせてしまう耳の熱。 こうしてくだらないやり取りですら、うれしいと思ってしまうどうしようもない心。 ただのちょっかいで、こんなことは彼の日常茶飯事、私だけが特別なんじゃない。 そう予防線を何重にも張って私は私の心を柔らかな布で包む。 割れないように、傷つかぬように。 大切に温めているこの恋心が。 それなのに博士は。 「博士、手ぇ離して、ください」 「恥ずかしがらなくていいじゃないか」 「はかせの、ばか……」 ぽろりと零れた涙が頬を伝い、顎から滴り落ちた。 駄目だ駄目だ、私何泣いてるんだろう。 勝手に思いつめて勝手に泣いて、こんなんじゃただの迷惑なやつじゃないか。 思えば思うほど頭は混乱し、涙は不思議なぐらい後から後から溢れ出す。 「わ、、何でお前、泣くんだ」 「何でって、わかりませんよ、私が聞きたいですよ、」 「そう、言われてもだな」 「しいて言えば博士が変なことばっかりするからじゃないんですか」 涙をぬぐって私は博士を見上げる。 背の高い博士、優しい博士、困らせてごめんなさい。 だけど何故だか私の口は止まらない。 こうなったらもう、言いたいことを言ってしまえとばかりに勝手に動き出す悪い口。 「どうしてちょっかいかけるようなことばっかりするんですか、勘違いしちゃうじゃないですか、私の気持ちなんか知らない癖に、私は、私は……」 「の気持ち?知ってるよ」 「え……え?」 「そういうこそ私の気持ちなんて、知らないだろう」 「は、え?はか、せ?」 何が何だかわかりません博士、あなたがいったい何を言っているのか。 どうして私があなたに、抱きしめられているのか。 「きみの鈍さこそ、あんまりじゃないか」 「にぶ?あの、これって……」 「そういうこと」 「あの、その、すみません……」 「はは、きみが謝ることじゃないさ。まさか泣かれるとは思わなかったけどね」 「……」 「もっと早く言おうとは思っていたんだよ。でもの反応があまりにも面白くてね、つい」 「やめてくださいってば!」 私の真っ赤になった耳朶をやんわりとつまみながら博士は笑う。 睨みつけようと思って顔を上げたけれど、あまりにも博士の顔が近くにあり恥ずかしくなって、私は仕方なく彼の胸に額を押しつけた。 彼のお気に入りのネイビーのシャツはまるで夕闇の色そのもので。 それはもしかすると、あのいつの日か見た夕暮れの続きなのかもしれない。 20131027 |