昼下がりのうだるような熱気から逃れるように私はカヲルの部屋に転がり込んだ。 縛っていた髪をほどき振り乱せば、こもっていた熱がほんの少しだけ逃げて行く。 着ているものを脱ぎながらずんずんと風呂場に向かうのは、カヲルの顔を見る前に汗を流してしまいたいからだった。 「シャワー借りるよー」 閉められた扉に向かって声をあげれば気のない返事が返された。 あぁもう夏の暑さって本当に嫌だ。 汗で湿って張り付いたショーツを洗濯カゴに投げつけて浴室の扉を開けるや否やシャワーのコックを全開にする。 冷たい水が徐々にぬるま湯に変わり、不快な皮膚のベタつきを洗い流してくれる心地よさにため息が漏れた。 「湯上りの君っていい香りがする」 「動きづらいなぁ」 「邪険にしないでほしいね」 髪を乾かし終え、バスタオルを巻いただけの私の腰に纏わりつくカヲルはまるで甘えん坊の猫みたいだった。 汗で湿った下着をふたたび身につけるなんてまっぴらごめんだと思い、羞恥心と不快感を天秤に掛けた結果私は素肌にカヲルのシャツだけを羽織る(そもそも裸を見られる羞恥心なんてハナから持ち合わせていなかった)。 細っこいくせにカヲルはちゃんと男の子の身体をしている。 彼のシャツは私にとってダボダボのワンピースみたいだ。 はい、とガラスのコップに並々と注がれた麦茶をカヲルから受け取って一気に飲み干すと、砂漠みたいにカラカラだった身体の隅々まで水分が行き渡り、細胞が息を吹き返す音が聞こえてくるような気がした。 「で、どうだった?学校は」 「どうもこうも、退屈だった」 「やっぱり行けばよかったかな」 「暑いし、別にいいんじゃない」 「の制服姿、見たかったな」 「……」 先ほど脱ぎ捨てて、いまでは洗濯カゴの中で湿ってくちゃくちゃになっているあのしょうもない布切れ、そんな物を着るぐらいなら素っ裸の方がマシだと思う。 それをなんだって男は(カヲルも一応男の子、だよね)あんな物に興味を示すのだろう。 「カヲルもちょっとはリリンらしくなったじゃない」 「胸の奥で声が聞こえる」 「私の制服姿が見たいって言う声?」 「そう」 「そんな声、聞こえない方がまし」 大げさにため息を吐いてテレビをの電源を入れれば、冴えないアナウンサーが今日の気温が30度を超えただのなんだの、聞きたくもないような聞かなくてもいいような話を長々と話していた。 「はぁーもうこの暑さほんっとに嫌!」 「仕方ないじゃないか」 「カヲルさぁ、最近碇シンジに話し方が似てきてない?」 「本当?」 「この前だって二人で泊まったりしてさー」 「いいじゃないか、僕と碇君は友達なんだから」 「友達、ねぇ」 「……?」 「ま、いいや」 「変な」 よくわからない、という顔で擦り寄ってくるカヲルをいなしながら鞄の中からプリントの束を取り出し彼に差し出す。 「ん、宿題だってさ」 「はぁ、面倒臭いなぁ」 興味の無い表情でいかにもやる気なく紙束を受け取るも、一瞬目を通しただけでカヲルはそれを床の上にポイッと投げ捨てた。 私もカヲルも、やろうと思えばこんな宿題ごとき瞬殺なのだけれど、いかんせん暑すぎて何もやる気がおきないのだ。 たとえ今いるこの部屋にクーラーが冷え冷えとかけられているとしても。 机にぺたりと頬を付け、ぼんやりと部屋の中を眺める。 何もしたくない、あわよくばこのまま眠りの中へ落ちてしまいたい。 低く小いエアコンの唸りを聞きながら、私は重たくなった瞼を閉じる。 「ねぇ」 「んー…」 「寝るの?」 「うーん…」 「ってば」 「……」 「何だよ、つまんない」 眠たいのだから放っておいてくれと言いたかったけれどそれを言うのも億劫で、開ききらない口の中でただ舌べらをもごもごと動かすことしかできなかった。 どうやらカヲルにはそれが大層お気に召さなかったらしく、「ねえ!」と耳元で声を荒げて私の肩をゆさゆさと揺さぶってくる。 「人の部屋まで来てどうして寝るんだよ、失礼じゃないかそれって」 「……」 カヲル、何か変わった。 ここに来て、碇シンジを始めとする色んな人間と関わって、彼の中で形容されることのなかった感情が徐々に形になり、彼自身を変化させている。 私の方がだいぶリリンに近い感情を持っているはずなのに(好き、とか、嫉妬、とか)。 カヲルが少しづつ人間らしい生き物になってゆくのを、私は不思議な気持ちで見ているのだった。 「カヲル、もし私が碇シンジのところに泊まりに行くって言ったらどうする?」 机の上に伏せていた顔を上げてそう尋ねれば、カヲルは考える間もなく「僕も行く」と詰め寄ってきた。 「なんで僕だけ仲間外れにするんだよ」 「うーん、そうじゃなくて、」 「じゃあ何なんだよ」 「私が、碇シンジと一晩過ごしたら、どう思う?」 「……」 嫌だ、そんなの。 珍しく弱々しい声を出すものだから驚いて表情を伺えば、斜め下に視線を向けて唇をへの字に曲げている。 嫌だ、だなんて。 あれ、ちょっと嬉しいぞ。 胸の内側からにじみ出る笑みのようなものが口元にせり上がる。 これって妬いて、る? うひひ、なんて薄気味悪い笑い声をいまにも結んだ唇から漏らしそうになりながら、あくまでも平静を装って尋ねる。 「何で嫌なの?」 「何でって…」 それっきり口を噤んでしまうカヲルは、ムッとした顔で私を見る。 「だって、碇くんのところに泊まるということは、僕らがしてるみたいに二人で一緒に眠るんでしょ?」 「そりゃそうよ(……)」 「嫌だ!」 語気を荒げたカヲルに手首を掴まれる。 「僕はそんなの、嫌だから」 嫌だよ、絶対。ブツブツと繰り返すカヲルの眉間には皺が寄っていた。 「なんで嫌なの?」 「何でって…嫌だからだよ」 「どう嫌なの?」 私の問いかけに、己の心の中を探るかのようにしてカヲルは目を閉じる。 ぐるぐると身体の中に渦巻いている理解不能な(恐らく今は、まだ)感情を、どうにか形作り言葉に表そうと躍起になっているようだった。 知ってるよ、カヲル。 苦しいよね、もどかしいよね。 イライラと中指で机を叩きながら、それでもカヲルは考え続ける。 そうしてやっとのことで顔を上げこちらを見据えた彼の目は、切なげで寂しそうで、不安に揺れていた。 例えば親とはぐれた幼子が繋ぐべき手が見当たらず、永遠に見知らぬ土地を彷徨い歩かねばならないおぞましい錯覚に陥ってしまったかのように。 「が僕を置いて、碇くんのところに行ってしまうのが、嫌だ」 「僕以外と楽しそうにしているが、嫌だ」 「それを思うと胸の奥が、苦しい」 「掻き毟りたいのに、決してそこには手が届かないんだ」 「赤く腫れて爛れているような気もする」 「考えただけで息がうまく出来ないなんて、そんなのおかしい」 「これって、」 なに。 疑問符は、なかった。 手を延ばして触れた彼の頬はすべやかで、柔らかく私の手のひらを受け止める。 「私もそうだよ、カヲルを思うと」 「そうなの?」 「うん」 こっくりと頷いた私の身体は、急に飛びついて来たカヲルによってフローリングに倒された。 「。どうしてかな、僕すごく嬉しい」 私を覗き込む瞳は美しかった。 回された腕に抱きすくめられて、息が苦しい。 なんて幸福な苦しみなのだろう。 「カヲル、」 好きだよ。 言葉にした時の安っぽさに耐えられず、必死になって私はカヲルの唇に自分のそれを押し当てる。 好き、愛してる、あなたしかいらない、離したくない、ずっとこのままでいたい。 とめどなく溢れ続ける恋しい心が、願わくばカヲルの中にも流れ込んでくれるように。 迸る激流のような感情のうねりを、カヲルは無言で受け止める。 わかっているのかいないのか。 理解出来なくたって、ただ感じてくれればいいと思った。 触れ合った鼻先と、薄く開いた唇から洩れる吐息を感じながら私はカヲルの細い首に抱きついた。 陽炎が出来そうなほど熱く湿った剥き出しの心を、彼の心臓に重ねるように。 200140709 |