震え。身体の奥底から沸き上がり全身の毛孔を開かせ、刹那的な快感に私はぎゅぅっと首をすくめる。けれどそれは恐怖だった。夜であり死であり喪失であり、暗い穴倉から彼らは手をこまねきながら私をじっと見つめているのだ。どれだけ離れても、暗闇の中に滲む彼らの目は爛々と光るのではなく、周りの闇よりもさらに深い漆黒の穴ぼこだった。見てはいけない、一度でも目が合えば囚われ、吸い込まれてしまいそうだった。
夢なのか現実なのかそれすらも分からなくなりそうで、嫌な汗をびっしょりとかきながら枕を抱きしめ布団にもぐる。そして気が付いてしまう。瞼を閉じても開いても結局のところ眼前には黒い虚無しかなく、空っぽの眼窟に死をたっぷりと湛えた彼らから逃れることなど出来やしないということを。あまりの恐怖と絶望に叫びだしそうになる口元を両手で押さえて必死に息を殺す。耳元でなる耳鳴りは、静かすぎる夜のせいなのか、それとも彼らの呼ぶ声なのか。
汗ばんだ足の裏をこすり合わせて私は布団から顔を出す。カーテンの隙間から洩れる月の光が部屋の中を白く淡く照らしていた。あの時ああすれば、もっとこうしていれば。終わってしまった過去。心の奥深く、暗く静かな場所がある。辛すぎる思い出や果たされなかった約束、無意味だった口付け、そんなものがひとつずつ棚に並べて置かれている場所。そこに私はしっかりと鍵をかける。決して開くことのないように。
けれど、どうしてか知らない間に鍵は開けられ、音もなく飛び出してくる過去に私はひどく傷つけられる。もらったブーケの百合の香りだとか、「週末はあそこのパン屋に行こう」というちょっとした約束だとか、新月の日に路地裏で交わした口付けだとか、そんな些細な事柄は砕けたガラスの破片のように私の心に突き刺さる。私はそのたびに必死になって扉を閉める。駄目、そこから出てこないで、もう終わってしまったの、戻らないの。そう心の中で叫びながら汗だくになって鍵をかけ直す。鍵を増やせばいい、そう思ったことは何度もあった。
けれど結局のところその扉は形而上のものであり、したがって鍵を増やせばいい、だなんて考え自体があり得ないことなのだ。だから私はたった一つの鍵を半泣きになりながらかけ直す羽目になる。鍵を開けているのは、他の誰でもない自分だということに気がつかない振りをしながら。
でも大丈夫、もうすぐ朝はやってくる、必ずやってくる。私は目をつぶって深く息をする。大丈夫、大丈夫と繰り返し唱えながら。祈りにも似た思いで。









扉の開く音とともに彼は部屋の中へ入ってくる。きっと今晩来るだろうなと予想はしていたけれど、実際に彼が来るとなると私の心臓は嫌がおうにも早鐘を打ち出す。恋、ではない。そんなけだるく甘ったるいものなどではない。もっと冷たく硬い、なにか。しとしとと降る雨のせいで、床板はいつものように乾いた音とは違い鈍くきしむ。足音が一歩ずつ近づくたびに、私は身を固くする。そしてとうとう止む足音。しばらくの沈黙の後、勢いよく布団がはぎとられ、私は蓑を毟り取られた蓑虫のように震え、ますます縮こまった。






?」






偽りの優しさをたっぷりと塗りたくった声が私を呼ぶ。大きな手のひらが私の髪を撫で梳くその感触に、もはや感情の及ばない奥底で私は快感を感じ身体の真ん中に淡い火が灯る。いや、しかし、実は彼が部屋に足を踏み入れた瞬間から火種は小さく燻っていたのだ。認めたくないだけで、知らない振りをしたかっただけで。けれど私は知っている。この後に起こることの全てを。知らぬ存ぜぬを貫き通すことなど到底できないほど、充分に知りすぎている。






「汗をかいているね。嫌な夢でも、見たのか?」
?」
「起きているんだろう、さぁ目を開けて」





身じろぎもせず、いっこうに瞼も口も開かない私に向かってエルヴィンは一人語り続けていた。
茶番だ。
こんなのは建前にしか過ぎない。






「エルヴィン」

、何だやはり起きているんじゃないか」

「そういうの、いらないから、早く」

「……、」






眉をひそめ無言で私を見るエルヴィンの瞳はほの暗い。何を考えているのか、きっと何も考えてなどいないのだろう。私をその胸の中に収め、かき抱くこと以外は。何の前触れもなく、私は唇を塞がれる。この男にとっては私の微々たる抵抗など無意味なのだ。息がとまるほどの長い口付けに、私は己の魂まで吸い取られてしまったかのような錯覚に陥る。
くっついたり離れたりする唇。その間から零れる荒く湿った吐息。するすると伸びてきた右手が乳房を包み、無遠慮にそれを揉む。どうしてこんなにも私の乳房は彼の手になじんでしまうのだろうか。彼の意のままに、形を変えてゆく己の体の一部を忌々しく感じる。忌々しい、などと言いながら私の身体はその先にあるさらなる快感を求め、それに向かう準備を着々と進めてゆくのだけれど。





「その瞳が、好きだ」

「……そう、」

「私だけを映していればいい」

「そんなこと、出来るのかしら」

「できるさ」





そう言ってエルヴィンは私を押し倒す。背中に軋むスプリングを感じながら私は瞼を閉じる(それはささやかな抵抗だった)。エルヴィンは私の両頬に手を添え目じりをそっと撫でさする。「目を、」そう耳元で囁きながら。この男の不思議なところは、言葉に他人を従わせる絶対的な力を持っているということだった。たとえ望んでいなかったとしても、私はこの男の言うがままになり、ついぞ己の意思を貫けたためしがない。目を開けばそこには当然のごとくエルヴィンがおり、そしてその瞳には私が移っていて、私は己の瞳に映った自分と見つめあっていた。





「ほら、私だけだ。そうだろう?」

「ええ、まぁそうね」

「ああ、そうさ。これでいいんだ」





狂気にも似た笑みを浮かべ、エルヴィンは私のひざ裏に手を添え思い切り足を開かせる。屈辱的な格好に、思わず彼を睨みつけるけれどそれはどうやら彼の身体に燃える火に油を注ぐだけの結果となった。そして結局のところ、いやだいやだと思いながらも簡単に足を開かされ股を濡らすような私は、単に淫乱なだけなのだ。
いつからこんなことになってしまったのだろう。ぐずぐずになりかけている脳で薄ぼんやりと私は考える。私の周りにいた友人や昔の恋人は、皆逝ってしまった。恐らく、今になって考えてみればそれは仕組まれていた死だったのかもしれない。確信ではなく、推測の域を出ないけれど彼ならば、それをやりそうだとは思っている。陣形を考案するのは彼なのだから。個々の能力や運が左右すれど、元から分の悪い配置であればある程死ぬ確率は高いのだから。けれど私はその憶測を決して口にはしない。確かめるのが怖かった。ああ、そうだよ。何でもないように、今日は天気がいいね、とでも言っているかのように肯定されでもしたら、いったい私はどんな顔をすればいいのだろう。
そうして私は一人になった。親しい友も恋人もいなくなり、そんな私をそばに置いたのがエルヴィンだった。何もかもがどうでもよくなっていた私は、立場上逆らえないことを理由にしてエルヴィンに好きなように扱われた。時たま襲ってくる憎しみや虚しさは、与えられる快感によっていつも彼がかき消してくれた。






「良い眺めだ」

「……ね、エルヴィン」

「なんだい」

「もっと、酷くして」

「あぁ、君が望むなら」





深く、深く身体がえぐられる。彼のそれは、私を呼ぶ虚無たちの住む穴倉まで届いているだろうか。あとどれくらい奥まで行けば彼らを追い出せるのだろうか。私は薄々気が付いていた。私を彼らから守ってくれるのはエルヴィンしかいないということを。孤独という名の暗く深い沼の底で、彼は私に寄り添う。たとえそこに私を突き落としたのが彼本人だったとしても、冷たい泥の上に一人横たわる私に彼が与えるぬくもりは計り知れないものなのだ。そして悦びと痛みを惜しみなく私に注ぎ続ける。
事実、エルヴィンと身体を重ねている間、私は何にも手招きされはしないし、押し込まれた彼の性器のせいなのか、記憶の扉が内側から開かれることもない。ただひたすらに昇り詰めることを考え、ついには上も下も右も左もわからなくなりながらシーツの白に溶けてゆく。結局のところ、私は彼を求めるしか道はないのだった。





、愛しているよ」

「ありがとう」

「私には、君が必要なんだ」

「奇偶ね、私にもあなたが必要よ」





おや、というような表情をしてエルヴィンが動きを止める。けれど私は背中に絡ませていた足を彼の臀部に押しつけ続きをせがむ。背中の下に滑り込んだ腕が私の上半身を抱き起こし、私はエルヴィンの上になって向かい合わせに繋がりあう。同じぐらいの視線の高さ。挑むような目で見れば再び唇が塞がれた。突き上げられて好き勝手に揺れる乳房があまりにも滑稽で、エルヴィンの肩口に鼻をうずめてくつくつと笑った。その私の首筋に彼はかじりつき歯形を残す。じくじくと痛む噛み痕を生温かい舌が這いまわり滲む血を味わう。





「エルヴィン」

「……なん、だ」

「忘れさせて、何もかも」

「ああ、いいさ」

「本当に、なにもかもよ」

「何もかも、だ」





過去も現在も未来さえも、忘れてしまいたかった。私を呼ぶ暗闇も、記憶の扉も。ただ彼に抱かれていればもうそれだけでよかった。互いに縋りつくようにしてベッドを揺らす。暗い部屋に映る私たちの影はさらに暗く淀み、それはまるで穴倉から私を呼ぶ彼らの眼窟にそっくりだった。



20130926