「ねぇ、あんなところに扉なんてあったっけ」

「さぁ、でも開いてるところ見たことないし、もう使われてないんじゃない」

「ここ、なんか薄気味悪いよね」

「うん、早く書類見つけて戻ろ」

「日も暮れそうだし」






そこには扉があった。
誰も通らないような廊下の突き当たり、重い樫の扉、真鍮の小さな取っ手のついた扉。
密やかに、扉はそこに存在していた。











* * *











ここはどこなのだろうという疑問はとうの昔に抱くことをやめていた。ここがどこ、ということよりも、もはや自分が誰であるかということすらわからなくなりかけていた。レンガ積みになったオレンジの光が柔らかに広がるこの部屋、私ひとりにしては十分すぎるほどの広さがある。家具らしい家具はベッド、姿見、ソファ、そして机しかなく、それ以外は壁一面に作りつけられた本棚の中にびっしりと嵌めこまれた本があるだけだった。
いつから私はここにいるのだっけ。私はなぜ、ここにいるのだっけ。理由などない。私はここにいる。ただその事実だけがこの部屋にはあった。
夕凪が白いカーテンを揺らす、もうすぐ夜がやってくる。夜の訪れ、それは私の体を包む蜜。ここにはじめてやって来た日、私は確かに見たのだ。爪の先程に細くとがった月の切っ先から滴る蜜がこの部屋に流れ込み、静かに私を包むのを。とろりと甘く芳しい蜜は音もなく私を飲み込み、皮膚の皺の一本一本にさえ入りこんでいった。その日以来夜が来るたびに、私の身体は月の蜜でいっぱいになる。
古びた時計が鐘を打ち、夜の10時を告げていた。そろそろ、彼がやってくるだろうか。初めのうちは絶望しかなかった。有無を言わさず私を上から見下ろすその男が怖くて仕方がなかった。いくら叫ぼうが喚こうが、男の力でねじあげられた腕は一歩間違えればぽっきりと折れてしまいそうだったし、何より叫んだところで口はすぐに男の唇によって塞がれてしまうのだった。
何日、何週間、はたまた何カ月、いいや、何年?どれだけの時間を私はここで過ごしたのだろう。今となってはもうどうでもいいことだった。
いつだって彼は突然現れる。この部屋の壁は恐らくとても分厚いのだろうう。近づいてくる足音や気配を感じたことは一度たりともなかった。突然ガチャリと扉の開く音が合図となって、この部屋に彼は現れる。それはまるで手品のようだった。
そして今日も、その合図は唐突に。








「こんばんは、エルヴィン」

「いい子にしていたかい」





いい子にしていたかい、彼は決まって毎回私に尋ねる、微笑をその唇に湛えながら。私は「していたわ」と、答えるほかはないというのに。
今日の彼はひどく疲れているようだった。目の下に灰色の疲労が透けて見える。億劫そうにジャケットを脱ぎ棄てると、どさりとソファに腰掛けた。足を投げ出して首をかしげ、私を見る。その瞳は静かに燃えていた。
良くない、とっさにそう思う。今日は例のアレがあった日だ。だって微かに匂うから。消しても消しても消しきれない、鼻の奥を突く腐臭。生温かくえづくような、血の匂い。彼はそれにまみれていた。兎の喉笛をいましがた食いちぎったかのような猛禽にも似たその瞳。何を見たのか、私には想像する由もないけれど。悲しみや苦しみを凌駕するほどの興奮の気配を感じて、とっさにシーツに手を伸ばす。肌の上に纏ったまっさらなワンピース一枚では、あまりにも心もとなかった。
顔を逸らしたものの、私の横顔を見つめる彼の視線は依然として消えてはくれない。観念して私はシーツを手放し、そしてワンピースを脱ぐ。布地が肌に擦れる乾いた音が、妙に生々しく部屋に響く。脱皮みたいだ、と思った。毎夜毎夜、古くなった皮を脱ぎ棄てて生まれ変わる生き物のように。古い皮を脱ぎ棄てたところで何になるでもないのだけれど。




「さぁ、、こっちにおいで」




ねっとりとした大人の声に絡め捕らるようにして立ち上がる。堅い床を踏みしめているのに足元は覚束ず、まるで雲の上を歩くような感触。彼のもとまで引かれた線の上を、ゆらゆら、危なげに渡る曲芸師にでもなったかのような気分だった。




「今日は何をしていた?どんなことを考えていた?」

「今日は、えと、本を読んでそれで、お昼寝をして……」

「夢は見たかい?」

「夢……は、見てない」

「そうか、私が君の夢に現れていたら、と思ったのだが」





ぞっとするような優しい笑顔で彼は言う。この部屋を出ることのできない私がここで日中出来ることなんて限られているというのに、飽きもせず彼は私の耳元で毎夜囁き続ける。それは、終わりの見えない夜そのものだった。確かめるようにして彼の指が私の輪郭をなぞる。触れた所から溢れる熱をもてあまして身じろぎずれば、たしなめられるように口付けが降ってくる。甘く腐った吐息が絡み合う。





「さぁ、今日はどうしてほしい」

「なんでも、あなたの好きなように」

「あぁ、ではとびきり厭らしいことをしてあげよう」





急に後ろ髪をひっつかまれて狼狽したのも束の間、息をのむ間もなく乱暴な唇を受け止る。苦しくて苦しくて、溺れた魚のように私は喘ぐ。きっと目つきは媚びるような女のそれになっているだろう。男を、欲しいというその眼に。彼の口にした「とびきり厭らしいこと」を想像する。あんなこと、こんなこと。私たちはこの部屋で、ありとあらゆる「厭らしいこと」をしてきた。上になったり下になったり、向き合ったり背を向けたり、足を開いたり閉じたり、見せたり見せつけられたり。嬌声と吐息と汗と体液を混ぜ合わせながら私たちは重なり合った。行けども行けども先はなく、むしろ進めば進むほど足元を取られてゆっくりと沈んでいく。




「どうだい、ここか、それともこっちか」





柔らかな私の膣をかき回すその指に翻弄される。知っている癖にわざとその部分だけを外されるじれったさにやきもきして、つい懇願の眼差しと言葉を彼に送る。「残念だ、もう少し可愛がりたいところだけれど」そう言って彼は私を押し分けて入ってくる。無遠慮に、支配するように。揺さぶられ、突き上げられる。川に流される葉っぱのように、翻弄される。
ちかちかと星が舞う視界の向こう側に見えたのは、まさに川だった。とろとろと、黄金色に輝く川。目を凝らせばその源は、空に浮かぶ月だった。細い月の先から滴り落ちる蜜がいつの間にか川となり、私と彼を包んでいた。





、君をここから出したりはしない、君はずっとここにいるんだ」

「ずっと、ここに」

「そうだ、決して離したりしない」





「やっと、捕まえたんだ」私の背後から覆いかぶさりながら項で震える唇。やっと?捕まえた?私は捕まっているの?
昔の記憶を思い出そうとするけれど、しっかりと鍵をかけた小さな箱にしまいこんだ記憶はそう簡単に扉開かない。わずかに思い出せるのは、壁の壊れた薄暗い部屋の中で一人蹲る私、血飛沫にまみれたエルヴィン、抱きしめる太い腕、揺られる馬の白い背中、それと、あとは……。逡巡しようとしたけれど、身体の真ん中から溢れ出す快感に思考の全てが押し流され、愉悦の涙となって溢れ出す。必死に口を開け空気をかきこむけれど、入ってくるのは舌がもげるほどに甘いあの月の蜜ばかりだった。










* * *










私が君を見つけたのは偶然だった。驚くべきことに君は壁の中ではなく、外にいた。君はいったい何者なんだ。それは誰にもわからない。きっと、君自身ですら知らないだろう。人間であるかどうかすらあやしい、限りなく動物に近い人間、そう考える他はなかった。動物に近い、すなわち猜疑心を持たず、限りなく純粋な生き物として君はこれまでを生きてきた。そんな君を、私は壁の中へ、そしてこの部屋の中へ連れてきた。単純に、自分の好奇心と欲望のままに。
君の持つ全てを奪ってでも。
君が初めて私を見たときのあの目をきっと忘れはしないだろう。黒目がちな君の瞳は湖のように澄んでいた。その湖面に石を投げ込みたかった、ただそれだけだった。君は大いに私の期待にこたえてくれた。従順な可愛い、愛しい私だけの。怯えた視線が日を重ねるごとに甘くとろけていくそのさまは、私の征服欲を大いに満たしてくれたし、少女から花開き女性になってゆく様は大変な見ごたえがあったといえよう。いつかやってくるその日まで、君はここから、そして私から離れることはできない。幸せも絶望も悲しみも喜びも、全てはこの小さな部屋の中で私が君に与えていくのだから。



20130831