グラスに活けてあったガーベラが枯れていた。オレンジと赤の花弁は元気なく萎れ、その頭を気だるげに垂れている。突然猛烈に不愉快になった私は花瓶からその花たちを引き抜きごみ箱に半ば叩きつけるようにして投げ入れた。後に残ったグラスからは腐った水の発する不愉快なにおいだけが漂っていた。そのどろどろと淀んで濁った水を改めて目の当たりにして心底げんなりする。そして、この花を生けた数日前のことを思い出し、その暗澹たる気持ちはますます胸の内で広がっていった。 そもそもこの花を生けたのはエルヴィンがその晩私の部屋に来ると言ったからだった(ああ、本当に思い出すだけでも忌々しい)。けれど、待てど暮らせど彼は一向に現れず、部屋の扉は誰にもノックされることなく時計の針は夜中の0時を回っていた。エルヴィンが私のところにやってくる、すなわちそれはそういうことで。カチカチと秒針の進む音が急く気持ちをより一層煽り、期待に胸を高鳴らせ私は気付かぬうちに股の間をはしたなく濡らしていた。 時計がいよいよ深夜1時になろうかという頃、私はすでにあきらめの境地に立ちベッドの中に潜り込んでいた。朝、エルヴィンの部屋に行った際にさりげなく耳元でささやかれた「今晩、11時に行く」、その短い言葉に私は胸を高鳴らせ、殺風景な部屋に少しでも彩りをと思い昼休憩の間に花屋へと向かいガーベラを買った。勿論花瓶なんてあるはずもなく、ガラスのコップにその花たちを生け窓際に置けば、急ごしらえではあるもののどうだろう、中々華やかになったのだった。私はいくつかの角度からその花を眺め、満足し、そして窓際だとかサイドテーブルだとかにうっすら積もった埃を手で払いのけた。 そんな事をしたところで、エルヴィンがこの部屋を訪れるのは夜中なのだから勿論そんな細かな埃など見えるはずがないし、ましてや彼の目的はひとつなのだから、窓際に飾った花なんて目もくれないだろうことはわかりきっているのだけれど。けれど、けれどそこにたった数パーセントのありもしない希望を夢見てしまう自分がいることもまた事実なのだった。 そうして私は職務が終わってからの数時間をベッドに寝転がったり、椅子に腰かけたり、花の角度を変えてみたりしながら極めて所在なさげに過ごしたのだった。 それなのに結局エルヴィンはやってこなかった。この胸の高鳴りと股の湿り気と、そして何より窓際に飾った花。それらが全て馬鹿馬鹿しく恥ずべきもののように感じて、私は一人暗い部屋の中、苦虫をかみつぶしたような心地になる。窓際の花たちが、自分を嘲笑っているような気がした。あーあ。誰に言うでもなく、自分の気持ちに踏ん切りをつけるように独りごちる。それと同時に部屋の扉が控えめに三度ノックされた。 「……誰」 「俺だ」 突然跳ね上がる鼓動と胸のざわめきを表に出さぬよう注意しながら返事をする。私の問いに答えたのは、予想と反して粗暴に響くリヴァイの声だった。どうして彼がここに。 「リヴァイ?入って」 「邪魔するぞ」 ガチャリと扉が開けられ、カッターシャツにズボンだけという至ってシンプルな格好をしたリヴァイが現れる。私はその姿をベッドの上に座ったまましばらくの間眺めていた。リヴァイは私の足元の床に腰を下ろすと右足を立て、もう一方の足を投げ出し背中をベッドに預けた。今日彼が来るなんて聞いていない。もしもエルヴィンと鉢合わせしてしまったらどうすれば。そんなことを考えるけれど、それはまるで遠くの世界で起きていることのように感じられ、もうどうにでもなればいいやと投げやりな気持ちになる。 「あいつなら、来ねぇぞ」 「え、」 「エルヴィンだよ」 「あ、そうなの」 その一言で私は全てを悟る。そっか、こないんだ。意識の外で口から出た音は、何の意味も持たずに床の上にぼとぼとと落下する。窓際で月の光を受けるガーベラの花をリヴァイが見ている気がして、私は途端に恥ずかしくなった。 「で、なんでリヴァイが来るのよ」 「来ちゃ悪ぃかよ」 「悪くはないけど」 「けど、何だ」 「何にも」 「おい、」 「なに」 「泣いてんのか」 「泣いてないわよ」 ベッドの縁に両手をかけたリヴァイが仰ぐようにして私の顔を覗き込む。とくに心配している風でもなく、その表情はいつもと何ら変わりのないものだった。わかっていた。エルヴィンに他に女がいることは。それも一人や二人ではないことも。それを承知で私は彼の隣に立っていた。その女たちも含めて私は彼を愛している、そう自分に暗示をかけるようにして。私だけを見てほしい、私だけに触れてほしい、そんな幼稚なことを口にして彼を困らせるほど幼くはなかったし、それを口にしてしまうことによって今まで築いてきた色々なものを失ってしまうことのほうが怖かった。けれど現実から目をそらせばそらすほど、彼らはより鮮やかに私を取り囲む。冷たい素振りをされた後にやってくる束の間の甘美な時間と優しい言葉、その間で揺れ続けた私の心はどれだけ包帯を巻いたところで綻び崩れ、些細な隙間を見つけてはさらさらと零れおちていった。 「馬鹿野郎、泣いてんじゃねぇか」 「だから、泣いてないって」 「……」 「……」 いくら強がったところで、両目から零れてくる涙はもはや隠しようがなかった。見かねたリヴァイがベッドの上へと上がり、私の隣にやってくる。泣いている姿なんか見せたくなくて、私は彼に背を向けた。 「だから言っただろ。俺にしとけって」 「……今、そんなこと言わないでよ」 「今どころか、何回も言っただろうが。忘れたなんて言わせねぇぞ」 「……忘れたわよ」 そうだった。私がエルヴィンから他の女の匂いをかぎ取る度に、リヴァイはそうやって言ってくれていたのだった。胸をえぐり取られるような痛みに悲鳴を上げる私の心に包帯をそっと巻いてくれていたのは他でもないリヴァイだった。けれど私は、そうして彼が包帯を巻いてくれた心を熱く燃やしながらエルヴィンの元へ向かい、そして彼に抱かれていた。リヴァイがそうしてくれなければ、とっくの昔にばらばらに砕けていた心を震わせながら。リヴァイのその言葉は慰めだった。エルヴィンに冷たくされればされるほど私の胸に温かく染みわたる。けれどエルヴィンがひとたび私に愛をささやけば、その優しい温かさはエルヴィンの激しく情熱的な熱に飲み込まれていった。 この場でリヴァイに抱いてもらえば何かが変わるのだろうか。エルヴィンへの気持ちを、断ち切れるのだろうか。もう私自身でどうにかできる限界を超えている。他力本願、優柔不断と謗られようとも誰かに、リヴァイにこの糸を断ち切ってほしかった。背後の彼を振り返り、縋るような目でリヴァイを見る。ああ、どうしてあなたがそんな悲しい目をしているの。あなたはそんな目をする必要なんてどこにもないというのに。 そうして結局私はリヴァイとベッドを共にした。あんなに悲しく切ない性交をしたことはいまだかつてなかった。口にするのは互いの名前だけで、それ以外に聞こえるのは荒い息遣いと時折洩れる濡れた喘ぎ声だけだった。リヴァイの背中越しに見えたガーベラは、静かに窓の外を向いていた。行為が終わり、リヴァイは口付けを一つ私の額に落としていった。ぱたん、と扉が閉まる音で全てが終わってしまえばよかったのに。 結果的に状況は何も変わることなく、むしろより一層込み入ったことになってきた。私の体は二人の男に抱かれ、心はますます分厚い包帯で覆われていった。 朽ち果てたガーベラの入ったごみ箱を掴んで私は部屋の扉をあける。まずはこの花を捨てにゆこう。そしてまた性懲りもなく花を買うのだ。今晩やってくる男の為に。 20131009 |