深く優しい泥に私は包まれていた。仄かに暖かく沈むそれは、蝕む事もせずただぴったりと私の肌を、身体を、捉えて離さない。脳は思考を放棄し、肉体はもはや静かに燃える魂をとどめておくだけの入れ物でしかなかった。何処かに種があったのだろうか、私は何時の間にか飲み込んでしまったのだろうか。肺の中に咲いた蓮の花が開く哀しい音がした。血管の中に細い根を張ったその小さな花は、私が呼吸をするたび心細げに小さく震えた。 明け方の微睡みの中でみた夢が、唐突に再生された。あの透き通るような花びら。ある訳がないとわかっていながら、私は手の平をそっと左胸に当てた。 「どうした、体調が悪いのか」 「違うの、大丈夫」 何でもないの。そう言って笑った私と一瞬視線を絡めてエルヴィンは書類へと向き直る。 こんなにも清々しい日は馬に乗って遠出でもしたくなる。エルヴィンの馬は美しい。はちはちに張った柔らかな毛並みの下に巡る強靭でしなやかな筋肉、些細な風にさえもたなびく鬣に、何と言ってもあの黒く澄み切った瞳。どこまでも遠くを見据えるその瞳は、どこかしら彼に似ているものがあった。 所在なさげにソファに横たわる私などいないかのように、サラサラと書類にペンを走らせるエルヴィンを横目で見ながら再びあの夢について考える。けれど多くの夢がそうであるように、今回の夢もあるきっかけを過ぎてしまったせいだろうか、いくら鮮明に思い出そうとしても私の頭の中には断片的にしか残っていない夢のかけらが張り付いているだけだった。ただ、儚げに咲いた蓮の花のあの薄紅色だけがはっきりと焼き付いていた。 「エルヴィン」 「なんだ」 「次の壁外調査、いつになりそう」 「本当ならば再来月にとでも言いたいところだが、前回の消耗が予想外に激しかった。恐らくは半月ほど先になるだろうね」 「そっか」 先の壁外調査での成績(あくまでも私の個人的な成果に限っていえば)は充分を通り過ぎて十二分なものであった。分隊長として、そして団長である彼の右腕を担う一角として大きな戦力である事は自負している。 風に揺れるカーテンの隙間から差し込む光に室内の塵が白く輝いていた。 早く、巨人を殺めたいと思った。自分の存在価値はそれしかないのだ。巨人を殺して生き延びる。かい潜った死線の数と殺めた巨人の数だけが己のアイデンティティを形成し、もはや存在意義となっていた。そう思い込むようになったのはいつからだっただろうか。 「待ち遠しいかい」 「まぁ、それなりに」 はぁ、小さく溜息をついたエルヴィンがペンをデスクに置く。眉間を軽く揉んだあと、ゆったりと椅子にもたれかかった。 「、時に君は些か生き急ぎ過ぎている様に思えてならない」 「そうかなぁ」 「私としては、君には少しでも長く側にいてもらわなければこまるのだが」 「何か傷つくなぁ、その言い方」 自虐的に笑って私は痒くもない頬を掻く。私が言った言葉の真意を図りかねてか、エルヴィンは首を傾げる。金色の髪が僅かに揺れた。 「君は有能だ」 「そして忠実、でしょ」 すかさず付け加えた私に「ああ」と低く相槌をうつエルヴィン。 「君は良くやってくれている」 「ありがたきお言葉」 「本当に、そう思っているよ」 「意地悪」 「はは、心外だな」 わかってやっているのだこの男は。既に私は彼に絡め取られている。触れられたその場所から草花が根を下ろす様にして、彼の存在は私の体内を静かに這いそこかしこに花を咲かす。たとえ花が枯れたとしても、その色や香りを忘れた頃合いで種が割れ緑が芽吹くのだ。彼の存在は私をぐるぐる巻きにし、身動きを取れなくさせる。 けれどひとたび巨人を目の前にすれば、その一挙手一投足はぶれる事なく網膜に映り、うなじを難なくざっくりと削ぐほどに身体は軽やかになる。ファンから吐き出されるガスの音や、耳元で唸る風さえも宙を舞う私には心地がいい。 ただ、この部屋(エルヴィンの執務室は広さの割りに物が少な過ぎるといつも思う)に入ればもはやその存在感に私は一瞬にして捕らえられ、がんじがらめにされてしまう。 「本当は君を、壁の外になんて出したくはない」 「そんなの、嫌。冗談じゃない」 「強気な君も素敵だ」 こっちへ来なさい、とでも言うように手招きをするエルヴィンを無視して私は瞼を閉じる。 身体の中に感じる、根。それは確実に私を蝕んでいく。手招きを無視されたエルヴィンは私を呼び寄せることを諦め、自分から私の方にやってくる。ブーツの踵が床を叩く乾いた音が近づいてくる。陽が登りきらない白んだ午前中の空気が小さく震える。私の横たわるソファに無理やり身体をねじ込んで(彼はある種の横暴を身につけている)不満げに鼻を鳴らした。 「今日は随分とご機嫌斜めじゃないか」 「別に」 「」 ふいっと横を向いた私の顎を捕まえる骨ばった指。拒むように顔を背けたけれど、この男の前では全てが無意味だった。近づいてくる唇を受け入れる。柔らかな果物を食むような口付けだった。ちゅ、と湿った音はこのへやにあまりにも不釣り合いであるような気がした。 「まだ朝よ」 「キスをするのに時間なんて関係ないだろう」 駄々をこねる子どもをあやすような口調でエルヴィンは言う。彼の唇が触れたところがひどく熱い。 「君を、閉じ込めてしまいたいとたまに思うんだ」 「鳥かごに入るには私は大き過ぎるわ」 「君に見合う大きさの物を設えたって構わないさ」 「正気の沙汰とは思えない、その考え」 一瞬の沈黙のうちに私は考えた。鳥かごの中、エルヴィンの為だけに囀る己の姿を。そして彼は「本当だな」と答えた。 「あなたは歪んでる」 「否定はしないさ」 ぎしり、と音を立ててソファが軋み、大きな身体が私の上に覆いかぶさる。綺麗に撫で付けられたその金色の髪が、さらさらと彼の額にかかった。朝の光を背に受けた彼の輪郭は鮮明さを失い、ぼんやりと滲む。髪、額、瞼、頬、そして顎の順にエルヴィンの手の平や指が私を確かめる。 それと同時に、突然、胸の内に潜む花の蕾がざわざわと震え出す気配を感じた。くるしい、うまく呼吸ができない。 「エルヴィン」 「君は私だけのものだ」 「エルヴィン」 「、私はいつか君を壊してしまうかもしれない。怖いかい?」 「エルヴィン」 「……」 とつとつと口にする彼。一瞬の間の後に私は声を振り絞った。その声が掠れたのは恐らく、蕾が膨らみ出しているからだろう。 「壊すなら、今壊して」 私の身体の隅々まで張られた根は、もはや完全に私を支配していた。私の中の全てを吸い取り、既にあとは大輪の花を咲かせる最後の段階にまできているのだ。 ああ、初めて彼と口付けをしたあの時に、種はひっそりと私の身体の中に入ってきたのだろう。離れている時ほど、彼のことを思うほどその花は根を伸ばしていっていたのだ、きっと。全ては仕組まれていたこと。咲いた蓮の花は、夢などではなかったのだ。 すぐ目の前に迫る瞳には私が映っていた。彼の瞳の中に閉じ込められた私こそが本当の自分なのかもしれない。 抱き竦められて身動きを取ることすら許されない。はたから見ればあんなにも広い胸の中だと言うのに。頬を押し当てたエルヴィンの胸、糊の効いた白いシャツの下にある体温が私の中へと流れ込む。 僅かに荒くなった息遣いで唇を求めるエルヴィンの髪に手を添えてぐしゃぐしゃと掻き回す。ぴったりと寄り添う彼の身体は、私に今朝見た夢を鮮明に、そして完全に思い出させた。 「、君の全てが欲しい、今すぐに」 切ない目をして私の首筋に鼻を埋める男をこれ程までに愛しいと思ったことがあっただろうか。絡まり、縺れ合ったまま沈んで行く泥の中。恍惚の暗闇の中でその時私が確かに感じたのは紛れもなく、開いた花弁が胸の内に触れたささやかな感触だった。 201308224 |