彼女は部屋の片隅にある空っぽの鳥籠に向かって、小さく何かを口ずさんでいた。
それは小鳥の囀りを真似ているようにも、祈りをささげる文句を呟いているようにも見える。支柱に引っ掛けられるようにしてぶら下がる鳥籠は、開いた窓から吹き込む柔らかな風に揺れていた。所々剥げかけた塗料から覗く錆びかかったアイアンが、その風景の物悲しさをより一層際立たせている。まるでそれは、遠い昔に描かれた絵画のように美しく色褪せていた。どんよりと乳色に染まる雲が垂れこめた窓の外、広がる雲の隙間を縫って舞い散る光の白い粒がふわふわと彼女を包む。白いカッターシャツから覗くその手首の細さに私は息を呑んだ。この世にあれほど儚いものがあるだろうか。ほっそりとした腕と手のひらを繋ぐ彼女の手首は、まるで春を待つ蕾のようにころんと丸く、そして可憐でいじらしい。その一部だけ、子供のころから時が止まってしまったかのようだった。
そうして私は彼女に声をかけるタイミングを掴みきれず、木偶のように、扉を半分開けたままの態勢でしばらくその場に佇んでいた。









* * * 










青い鳥、あおいとり。昔忍び込んだ閲覧禁止の書架で見つけた本。その中のお話に出てきた幸せの鳥。


埃っぽい書架の中に納まっていたその本は分厚く、何年も日の目を見ていないのか埃がうっすらと積もり黴臭い。ページをめくるたびにペリペリと乾いた音がした。人気のない書庫はシン、と静まり返り、沈黙とゆったりと流れる時間だけがそこにはあった。天井まで伸びる本棚にぎっしりと詰まった本たちは口を堅く紡ぎ、手にした一冊の本だけが優しく私に語りかけていた。どうしてこの本が(言ってしまえばここにある全ての本たちが)閲覧禁止になっているのか私に知る由なんてない。それがただのおとぎ話だとしても、そこにあるのはそれが閲覧禁止であるという事実ただそれだけだった。
膝の上に載せた本のページを捲る度に瞼が重くなっているのは気のせいではない。何せ昨日は壁外遠征だったのだから。宿舎に帰ってきたところでろくに眠れず、ふらふらのまま目覚めた私は引き寄せられるようにしてこの場に立っていた。この場所は私とっておきの隠れ家だった。主だった部屋からは遠く離れた分館のさらに奥、こんな辺鄙なところに好き好んでやってくる人間など私以外にいようものか。綻んでしまった心を、私は一人静かにここで紡ぎ治す。それが永久に損なわれてしまわないように、慎重に、正しいやり方で。

眠い目をこすりながらページをめくる。幼い二人の兄妹は、幸せの青い鳥を見つける旅の最中だった。
捕まえても捕まえても死んでしまう青い鳥。鳥たちはいったい何を思って死んでいったのだろう。幼い二人に元いた場所から連れ出され、そこを離れた途端に息絶えてゆく鳥たち。気が付けば私は泣いていた。嗚咽もなく、ただ静かに涙だけが溢れてきた。頬を、顎を伝う涙が本の頁に落ちて乾いた音を立てる。静寂を破ってしまった事に恥じ入る間もなく、次から次へと涙は湧き出してきた。それはまるでこんこんと湧く泉のように終わりがなかった。






、こんなところにいたのか」

「……エルヴィン」





どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。柔らかなエルヴィンの声で目が覚める。





「時間になってもやってこないから探しに来たんだ」

「もうそんな時間?ごめんなさい」

「感心できないな」




そう言って眉を顰めた彼は、私の膝の上にある本に視線を投げかける。





「何故なんだろう、この本を手に取ったのは」

「問題はそこではないだろう」






どうして、そう言ってエルヴィンは私の頬に手を添える。「どうしてこんなところで泣いていた」、咎めるでもなく彼は尋ねる。私はてっきりどうしてこんな場所に来ているんだ、と尋ねられると思っていたのに。ああ、そういえば私は泣いていたんだ。どうしてと聞かれたところで説明のしようもなく、私は困ってしまう。沈黙。エルヴィンはそっと私の髪を撫でる。言いたくなければ言わなくていい。彼の手のひらはそう語っていた。けれど私は話し出す、先程読んだ話の粗筋を(エルヴィンは私をとことん甘やかすけれど、私はそれに慣れ切ってしまうのが怖かった)。もうとっくの昔に勤務時間は始まっているだろうに、エルヴィンは時折相槌や目配せを挿みながら、遮ることなく私の話に耳を傾ける。
再び自分で話していながらも、美しい青い小鳥たちが折り重なるようにして鳥籠の中で死に耐える様を想像して視界がにじむ。昨日の景色、慟哭、悲痛な様が波となって私を呑みこんでゆく。大きく、小さく寄せては返すそのたびに私は足元をすくわれ、おぞましい記憶の奥底に引きずり込まれそうになる。知らず知らずの間にきつく握りしめられていた私の拳をエルヴィンが包む。なんて大きな手なのだろう。彼はこの大きな手で何を求め、何を得、いったいどれ程のものを屠ってきたのだろうか。
青い鳥がもしいたらあなたは何を願うの。そんな馬鹿げたことを聞くほど私は愚かな女ではない。息絶えた鳥を思い、エルヴィンの胸中を思い、そして逝ってしまった仲間たちを思い私は頬を濡らした。真正面から私を見据えていたエルヴィンは私の頬を伝う涙をその大きな手で拭った後に私をやんわりと抱きしめ、手を取って立ち上がる。





「さぁ、戻ろうか。皆が心配している」

「うん。ねぇ、エルヴィン」

「なんだ」

「きっといるよね、青い鳥」

「……どうだろうか」

「いるよ!私探す」

「また突拍子のないことを」






そう言ってエルヴィンが身を翻し背を向けたその時、思いがけず私が目にしたのは青い羽根だった。
エルヴィンの広い背中に舞う、青い羽根。
ああそうだ。やはり絶対どこかにいるんだ。青い鳥は。柔らかくきらめいた青の羽毛に身を包み、濡れるような黒い瞳で自由な大空を見据える幸せの鳥。彼らはどんな壁だって越えてゆけるだろう。そしてどこまでもどこまでも自由に飛んで行くのだろう。きっと私にだって見つけられる。
ふと目をやった窓の外、広がる空に2羽の鳥が空を割って飛んでゆく。もしかしたら、なんて子供じみた考えに頬を緩ませながら繋いだエルヴィンの手に力を込めた。





「そういえばね、あのお話、最後のほうのページが破れていたの」

「……誰かが破ったのかもしれないな」

「閲覧禁止の本なのに、変なの」

「そうだな。大方禁止される前に破かれたか、のようにこっそり忍び込んだ誰かが誤って破ってしまったんだろう」

「ふーん。ま、いっか。あの兄弟は見つけられたんだもん、青い鳥を」

「……」





* * *













いつからか彼女はよく空を見上げるようになった。どこから引っ張り出してきたのか鳥籠を部屋の片隅に置き、時たま物憂げにその中を覗く。鳥など、青い鳥などそこにはいないというのに。 幼い二人が手に入れた青い鳥は結局あっけなく死んでしまう。
彼らが捕まえようと躍起になった揚句殺した(たとえそれが意図しなかったものだとしても)鳥たちと同じように。
青い鳥。まるで偶像だ。要するに、そんな出来あいの幸福などこの世には存在しないということなのだ。けれど私を含め、私たちは数えきれない鳥たちを犠牲にしながら、必死になってその姿を追い求める。まるであの純粋な幼子たちのように。ありもしないものに手を伸ばしては、空をかいてばかりいる。

ちぎって丸めたあのページの半分を握りしめたまま私は、眩しいものでも見るかのように目を眇めての姿をじっと眺めていた。吹き込んできた風にのジャケットがはためいた。揺れる二つの羽根。彼女の目には涙が浮かんでいた。羽を折られて地に落ちた鳥のように、彼女は危うく儚げに霞む。
たまらなくなって私はの元に駆け寄りその細い体を抱きしめる。胸を突く、衝動にも似た強い感情で。彼女の人形のような首筋。その薄い皮膚の中には、うっすらと青い血管が透けていた。後頭部(そこもまた人形のように、つるんとした丸さであった)に添えていた手を滑らせ、血管をなぞる。細く青い血管を。
そうしてただひたすらに心の中で願い続ける。
どうか、どうかその涙がこぼれないように。
私の小さな幸せの鳥よ。
いつか息絶えるのならば、いっそこの手で。



20130904